和楽茶会について
ごあいさつ
少林寺の書院に”和楽”と書かれた大きな扁額がございます。これは剣禅一味の豪傑で知られる物外和尚が、竹刀の先に墨を付け書かれたものだそうです。この扁額に因み、また、さまざまな流儀の人が寄って楽しむということに掛けて”和楽会”と命名しました。
皆様には、流派を問わずご参加いただき、三猿斎ゆかりの少林寺に於いて楽しいひと時をお過ごし頂きたいと存じます。
拝具
和楽会会長 河田隆介
和楽会とは
茶の文化と先人の数寄者の遺徳を広く語り継ぐため、茶会を企画運営をしています。少林寺の茶庭、三猿堂(三猿斎の坐像が奉られている茶室)の修復をいたしております。和楽会主催により、年に一度少林寺に於いて和楽茶会を開催いたします。境内にある三猿堂(二畳台目)は、この茶会の時に使用させて頂いてます。
和楽会の歩み
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伊木長門忠澄
~若狭改め長門・隠居名三猿斎~
三猿斎は、文政元年(1818年)8月23日、佐伯に一万石の采地を領す池田家家老土倉市正一静の側室の三男として生まれる。
天保4年、16才で虫明に三万石を領す伊木家へ養子入りし、家督を相続してからは、備前国老主席として備前藩の興亡を一身ににない、尊王か佐幕かで揺れる藩論を統一し、騒然たる幕末に東奔西走の青、壮年期を過す。
若い頃より風流人で書画をよくし、虫明窯に清風与平や真葛香山などを招き指導をさせまた茶器を蒐集し茶事を楽しんだ。
黒船防備の折でさえ、茶道具を買い求めたり御陣屋で茶会を催したりと戦国武将のような風格を兼ね備えた大茶人であった。
茶の流儀は、はじめ速水流であったが、後に今日庵玄々斎宗室に傾倒す。
流儀を問わず各家元や茶人と交遊し、茶の湯文化に多大な貢献をして、数寄者の鏡として称されている。
元治2年(1865年)、48才のときに「見ざる、聞かざる、言わざる。」の庚申塚の三猿に因み自らを「三猿斎」と称してからは世俗から離れ茶の湯三昧の風流生活に余生を送った。
明治14年、「平素勤王の志厚く能く王事に鞅掌したる功」により、従六位に叙せられた。(明治43年、追贈従四位)
明治19年3月23日没 享年69才